ノートの用途:創造と記述
生成的なノートの利用
ここまでのアウトライン(抜粋):
前回はノートの用途のうち「管理と趣味」について見ました。行動に関わる用途ですが、志向性が逆転している点が興味深いところです。
今回はアーキタイプの残りの二つ、「創造」と「記述」を検討しましょう。
創造
創造は、この手の活動で一番印象が強いものでしょう。古くは「知的生産の技術」がそうですし、最近のセカンドブレインやPKMなども単に保存するだけではなく、何かしらの知的労働・知的成果物を求めて行われるものだと思います。生成AIの登場で、いっそうこの領域に関心が集まってくるかもしれません。
さて、ここまで確認してきたように、「学習と備忘」がそれぞれ異なり、「管理と趣味」もまたそれぞれに異なるわけですが、さらに言えばそれらと「創造」も違っています。つまり、学習だけやっていれば創造になる、とかそういうことではないわけです。強い言い方を許していただければ、情報を「お勉強」しているだけで、何かがクリエイトされることはありません。ノートの用途について検討しているのは、そこを間違えないためです。
一方で、勉強なしに創造することも不可能です。もっと言えば、創造のためには備忘も必要ですし、そのプロセスを進めて行くためには管理が、創造を支える想像力を豊かにするためには趣味も欠かせません。つまり、創造は総合的な営みです。創造だけを考えていればいいわけでもないのです。
私が「生きることの三要素」で重なり合う円を提示したのは、こうした関係に注意を払ってもらいたいからです。何か一つを選ぶのではなく、また孤立した要素でシステムを組むのではなく、重なり合う要素として総合的に捉えること。この観点が大切でしょう。
前置きが長くなってしまいましたが、創造のためのシステムは、新しいものを生み出すことを助けるシステムであり、代表例は梅棹忠男やニクラス・ルーマンのカード法でしょう。着想や思想を一つのカードとして蓄積、そこから新しい知的成果物を生み出す。
すごくラフに言えば、創造には素材が必要で、素材としてノート(カード)を書き残す、ということなります。よってここでは、「保存されていること」が極めて大切な要素になります。しかし、この言い方だと勘違いが生じるかもしれません。
なぜ「保存されていること」が大切なのか?──それは私たちが忘れるからだ、という答え方は半分は正解で半分は間違っています。この理解が十分でないと、創造のためのノートは簡単にゴミ屋敷に転じるでしょう。
なるほど。たしかに私たちは情報を忘れます。書き留めておけば、その情報が失われることはありません。
では、あなたが着々とノートをとり続け、10万の素材が貯えられたとしましょう。先ほどの前提を受け入れれば、あなたはその10万のすべてを覚えていないことになります。そしてあなたは、その覚えていない素材から適当に選び、組み合わせることで知的成果物を作ることになります。
ほんとに?
ほんとうにそんなことをやっているのでしょうか。あるいは、そんなことをやったとして、そこに価値が宿るのでしょうか。
もしそれがYesならば、自分が考えたことを保存することと、適当に見つけたWebクリップを保存することに差はなくなります。だって、どちらも知的成果物をつくるときの自分にとっては「覚えていないもの」なのですから。そして、この考え方を延長すれば、生成AIに作ってもらうこととも何も変わらないことになります。
どうも昨今のライフハック界隈はこちらの方に進んでいるように見受けられます。そちらに進みたい方を止めるつもりはありませんが、何か違うんではないかと思う方は一緒に考えてみましょう。
カードの役立ち方
蓄積したカードが知的成果物の役に立つのは、第一にそれを読み返すことで「思い出す」からです。忘れたものは情報がデリートされたわけではなく、インデックスを見失っただけです(これもコンピュータのメタファに頼りすぎですが、ひとまず)。よって、カードを見ても思い出せないものは成果物の役には立ちません。だから、思い出せるように書く必要があるわけです。
ただしこれは、用途としては「備忘」です。「あの書籍に、これこれについての情報が書かれていた」ことを思い出すのは、創造を目指すために使われていても役割としては備忘でしょう。
よって、蓄積したカードが知的成果物の役に立つのはもう一つ別の側面があります。すなわち、第二にそれを読み返すことで新しい考えが生まれることです。
たとえばあるカードを読み返す。すると、「いや、これは別の方法で説明できるな」と思いつく。あるいは二枚のカードを並べて「ここに穴があるのではないか」と思いつく。どちらも、単に何かを思い出しているわけではありません。新しい考えが生まれています。
ルーマンはカードに番号を振り、議論の流れを作ることで、後からそれを読み返した自分がその議論に挑戦できる形を整えました(これをコミュニケーションだと評しています)。梅棹忠男は何度も何度も「カードをくること」を説きました。どちらも、忘れたものを単に思い出すためではなく、書かれたカードを触媒にして新しい考えを発展させていくためのものです。
情報とは差異であり、差異はあるものと別のものとを比べるときに生じます。頭の中に「そのこと」があるだけでは差異は生まれません。それを書くこと=外部化することで、はじめて差異は発生します。その差異が、駆動力となり、新しい考えを展開していく。
そのような思考のドライブを支えるのが創造という用途です。
もちろん、知的創造において備忘も重要です。資料を揃えることは足場づくりに欠かせない要素でしょう。しかしそれだけだと「資料をたくさん集めた人」になりかねません。何かしら創造的要素が必要で、そこでは素材を触媒として考えを発展させていくことが必要です。
ちなみに、いわゆるネタ帳と呼ばれているものは、備忘的要素と創造的(触媒的)要素が半々くらいで混じり合っている用途だと思います。
記述
創造においては、なんであれ「保存されていること」が大切ですが、記述においては「ただ書くこと」が重要です。
いわゆるブレインダンプと呼ばれる手法が代表的ですが、ともかく書き出すことで頭を整理するのが記述という役割です。ちょっとした落書きを楽しむこともここに含められるかもしれません。
書くという行為に重点があるので、書き終えた紙は大切に保管しておく必要はありません。もちろん、保管しておいてはいけないというわけではありませんが、プライオリティーはごく低く、もし手間が発生するならばやらない方が良い、という場合もあります。
ただし、こうした記述と、「思いついたことをのべつまくなしにしゃべり立ててスッキリする」ことの違いは、書くことが書き残すことを避けがたく生んでしまう点です。つまり書き終えた紙は捨てるにしても、書いているときは文字は「保存」されていきます(2秒で消えるインクとかなら話は別ですが)。そうすると、自分が書いたことに触発されて、何か書くことを思いつく、ということが起こります。差異と触媒。
その意味で、「ただ書くこと」をしているときでも創造的なことは起きています。そして、ある種の作家は、この「ただ書くこと」を繰り返して大きな創造的構築物を作ったりもします。
つまり、創造も記述もどちらも生成的ではあり、前者はよりメタな視点を、後者はより今そのときをサポートしていると考えられるでしょう。

