ノートの用途:管理と趣味
やるべきことをやる、生活を楽しむ。
ここまでのアウトライン(抜粋):
前回は、学習と備忘という「記憶」に関する逆向きの用途を確認しました。今回も引き続き、アーキタイプのうちの二つ「管理」と「趣味」についてみていきます。
管理
「管理」という言葉には、あまりよくないイメージがつきまとっていますが(管理社会など)、そうはいっても大切な営みであることは間違いありません(管理人さんなど)。
ようは、管理が「コントロール→支配」と結びつくと厄介事を引き起こすのでしょう。そうしたものは抑制したほうがいいし、忌み嫌われても仕方がないとは言えそうです。一方で、ある状態を維持し、適切な方向づけを行うものは、人が生活する上で一定の貢献をもたらします。それが行き過ぎると支配的管理になってしまうわけですが、そうならないように注意を払えば意義ある活動になるはずです。
と、管理論をぶちあげてしまいましたが、ノートの用途として考える「管理」とは、やることの管理やスケジュール管理が該当します。活動支援、行動サポート的意味合いが強い用途です。アナログツールで言えば、「手帳」が担っている用途だと言えるでしょう。
そうした用途で求められる要件と言えば、厳格さや正確さです。「やること」は──官僚機構のように──うむをいわざず実行されることが求められますし、スケジュールが間違っていては困ったことが起こります(遅刻、ダブルブッキング)。
その意味で、厳格さや正確さを提供してくれるデジタル・コンピューターと非常に親和性が高いのがこの「管理」の用途です。
さらにこれらの「管理」は活動支援であって、活動そのものではないので、できるだけ手間がかからない方がよいと考えられます。タスク管理に1時間かかっていたら、作業時間が1時間減ることを考えればイメージしやすいでしょうか。時間だけでなく、認知資源が浪費されて作業そのものが手につかないとなったら本末転倒なのは間違いありません。
総じて言えば、効率的に行えるのが好ましいのが「管理」です。この点も、デジタル・コンピューターと相性がよいと言えるでしょう。
趣味
「管理」が活動支援であるとすれば、「趣味」も同様のコンセプトを持ちます。たとえば、自分が観た映画のノートを書いたり、好きな作品の情報をまとめたり、といった行為によって、よりその活動が好きになる・楽しくなることがあります。これが「趣味」です(おもむきを味わうという意味で使っています)。
一見似たことを行うので「管理」と似た手つきで行われることがありますが、目指しているものがまったく違うことに注意してください。
第一に、管理は活動の外側に立つものですが、趣味はそれ自身が活動を成しています。つまり、映画を観ることも趣味であれば、観た映画のノートを書くことも趣味です。
よって第二に、そのようにしてノートを書くことも楽しくないとあまり意味がありません。義務的に記録を続けるのは、むしろ「管理」をしていると言えます。記録は正確である方が好ましいわけですが、あまりにも厳密に考える過ぎると楽しさが減ってしまうかもしれない点には注意が必要です。
そうすると、第三に管理は効率的にやればいいのですが、趣味は効率性を突き詰めた結果、無味乾燥な味わいになってしまう危険性があります。人は手間の中に(も)価値を見出すものです。極論を言えば「効率的な趣味」は矛盾しているのです。
正確性や効率性を第一義に置くのではなく、いかにその活動を楽しめるのか、価値が豊かになるのかを主眼に置くのが「趣味」です。
まとめ
活動に関与する「管理」と「趣味」ですが、やろうとしていることは正反対です。
もちろん、その二つに優劣も貴賎もありません。現代社会では「管理」がよくないものとされ、そのカウンターとして「趣味」が礼賛される構図が採用されやすいわけですが、あまりに単純な二項対立でしょう。管理には管理の役割があり、趣味には趣味の役割がある。それだけの話です。
ただし、それぞれに「行き過ぎる」弊害を持っていることは注意にとめておきたいところです。支配的管理も問題ですが、放蕩すぎる趣味も生活のバランスを崩しかねません。どちらも「ほどほど」の運用が好ましいと言えます。
また、デジタルノートの場合、効率性に重きが置かれやすい傾向があります。趣味的なものが軽視されがち、ということです。にもかかわらず、管理の手間を過剰にかけることで、一種「趣味的」になっている倒錯性もあります。
人間の営みとは、かくも矛盾に溢れたものである、というのがこの手の話の面白さです。

