前回の記事では、Johnny.Decimalという整理法を引きながら、情報の大きな「くくり」について検討しました。
私たちが日常的に扱う情報は、雑多ではありながらも、無限の広がりは持っていない。エリア10、カテゴリ10くらいの範囲で収まるし、むしろどういうカテゴリがあるだろうかという検討が、自分の生活を見つめる契機になる。そういう側面があるかと思います。
しかし、上記はあくまで日常生活における情報整理です、知的生産活動だったらそんなわけにはいかないだろうし、だからこそ階層構造ではなくネットワーク構造が活躍するのだ、という話はどこまで本当なのかを今回は検討してみます。
Zettelkasten
昨今のデジタルノート、特にリンク型のデジタルノートで真っ先にモデルとして上がるのがZettelkastenです。詳細はまた別の機会で論じますが、ニクラス・ルーマンという社会学者が用いたカード法を別に考案されたメソッドです。
英語なら『How to Take Smart Notes: One Simple Technique to Boost Writing, Learning and Thinking』、日本語なら『TAKE NOTES!――メモで、あなただけのアウトプットが自然にできるようになる』がその解説をしてくれています。
実際この本は有用な示唆に満ちているというか、「考えるためには、書くことが必要」という知的営為における基本を紹介している点で一読の価値があるわけですが、それはそれとして”テーマ”の扱いがやや乱雑です。
著者のズンク・アーレンスは言います。「テーマはボトムアップで見つかる」と。メモ(カード)を蓄積していけば、おのずとそこからテーマを見出すことができる。しかも自分の関心事に沿ったテーマが見出せる、と。
たしかにその通りでしょう。これから書く文章の「テーマ」はボトムアップで見つけられるかと思います。
しかし、書く文章の「テーマ」ではなく、自分の研究の「テーマ」はどうなのでしょうか。
この点を考えないわけにはいきません。
ルーマンの研究テーマ
先ほど述べたように、ルーマンは社会学者です。彼の為した仕事は社会学に新しい視点を持ち込んだと言ってよいかと思いますが、それでも彼ははじめから「社会学」に関心を向けていました。気ままに本を読んでいたら、突然「社会学」というテーマがボトムアップに発見されたのではありません。
「社会学」という研究テーマがあり、そのテーマに向けて日々文献を読み、メモをとっていたのです。
こうした研究の方向性、あるいは大きな枠組みは、「トップダウン」というほど絶対的な力を持っているわけではないものの、メモからの「ボトムアップ」で生まれてきたわけではない、という点は留意しておくべきでしょう。
もしルーマンが社会学という枠組みを持っていなかったら、はたして彼の「システム」は適切に運営されていただろうか、という疑問を持つことはきわめて重要です。
なぜなら、市井の人間が「知的な活動」を始める際には、明確なテーマなど持ち合わせていないことが大半だからです。なんとなく知識に興味がある。なんとなく賢くなりたい。
そうした状況において、まず大きな枠組みとして研究テーマがあることが前提となっている方法がどれくらいうまく機能するのかは、注意して扱う必要があるでしょう。
ルーマンの11の主題
ルーマンは社会学を研究していたものの、その興味はかなり広範囲にわたっていました。その広範囲の興味を支えたのが彼のslip-boxシステムであったことは間違いないでしょう。
一方で、彼はデジタルではなくアナログの紙を使っていました。薄い紙は自立しないので、保存するためにはどこかに入れておく必要があります。彼は、引き出しを使っていました。だから彼のシステムは「slip-box」なのです。単にカード法というだけならば「slip」でいいはずですが、それが入った箱が不可欠だからこそ「slip-box」なのです。
彼はそうした引き出し=箱を使い、区分けされた空間にカードを保存していました。それぞれの引き出しには主題が割り当てられていたそうで、以下が列挙されています。
1 組織論
2 機能主義
3 決定理論
4 オフィス
5 公式/非公式の秩序
6 主権/国家
7 個別の用語/個別の問題
8 経済
9 アドホックノート
10 古風な社会
11 高度な文化
「リンクを使ったシステム」というイメージだと、ただ乱雑にカードをリンクさせていくだけ、テーマはボトムアップで見つかるという印象があるかもしれませんが、少なくともルーマンのやり方ではきちんと「主題」があったのです。主題があり、それぞれの主題の議論の中に、カードが位置づけられていた。
この点を見落とすと、ルーマンの方法の重要な部分がこぼれ落ちてしまいます。
正直なところ、高い生産性を維持したのはズンク・アーレンスではなくルーマンその人なわけですから、彼が実際にやっていた方法にこそ注意を向けるべきでしょう。
有限性を持つ
さて、ここで思い出してみましょう。
Johnny.Decimalでは大きく10のエリアを設定していました。ルーマンはそれに対して11の主題を持っていたわけです。知的活動という興味が広がっていきそうな分野ですら、10+1の範囲に収まっています。
そして彼は、基本的なメモ(カード)をこの主題の「中」に位置づけていったわけです。つまり、限定された主題(枠組み)を持つことは、知的生産活動においても十分に機能するということでしょう。
はっきり言っておきます。
「自由に」「ボトムアップで」「制約なく」という聞こえの良いフレーズがデジタル系の知的生産(ないしはPKM)で踊っていますが、実際に本当に制約がなければ何一つまとまることはないでしょう。
それらの分野でうまくいっている人は、まず一義的に自分の研究テーマという一番大きな制約があり、その制約の中でかっちりした階層構造ではない形で情報を集める営みをしているはずです。
いかにそれを見つけるか
であれば、研究テーマのようなものを持たない姿勢の知的生産者はどうすればいいのでしょうか。Zettelkastenは無用なものとして棄ててしまう?
一つ付言しておくと、ルーマンは自身のシステムを一度大きく作り替えています。おそらく知的探求をいくらか進めた段階で、自分の関心領域が明らかとなり、そのタイミングで仕切り直したのでしょう。
つまり、テーマ・主題というものは必要だが、しかしそれが最初から明確になっているわけではなく、研究を進めるうちにクリアになってくる、という厄介なものなのでしょう。
だから「仮」にテーマを決めるのです。自分なりの疑問を設定する。その枠組みの中で、情報を位置づけようとしていく。
それを続けていくと、どこかしら違和感が出てくるかもしれません。それが一つのきっかけです。「それ」というものを捉まえるには「それではない」ものからアクセスするのが一番です。
なんにせよテーマ・主題というものを持たないと、それに位置づけようという思考も出てきません。そうなるとただ発散するだけでまとまりは永遠に生まれないでしょう。
「位置づける」こと。
これがルーマンのコンセプトの一番大切な部分です。この点は、またZettelkastenそのものを検討する際に掘り下げてみます。