「なんでもできる」と「なんにもできない」の狭間
以下の投稿を読みました。
自分も似たような経験があるのでよくわかります。精神状態が悪いと何もかもがうまくいかない気がしてきます。思考が非常に極端になってくるのです。
自分は何でもできる、という万能感(あるいは全能感)も極端ですが、自分は何にもできない、という無能感も同じように極端です。でもって、現実はその中間のどこかに存在しているはずです。
目を覚ますことができるし、ご飯を食べることができるし、家族に話しかけることもできる。呼吸することもできるし、心臓を動かすこともできる。切り傷も時間をかければ治すことができる。
これらは生命活動の基本ではあり、私たちは普段こうしたことができたからといって有能感を持ったりしませんが、実際はたしかな「能力」なわけです。
もちろん、もっと元気になればこうして文章を書いたりもできますし、誰かとトークをしたりもできます。それは特別な能力ではないにせよ、やっぱり「能力」と言えます。
「なんでもできる」と「なんにもできない」の狭間の感覚。具体的な「生きる」ということに立脚した、能力を有しているという感覚。
私はその意味で「有能感」という言い方をしてもいいんじゃないかと思います。でも「有能」という言葉それ自身が、ハイクオリティーなニュアンスを伴っていますので、あえてそのニュアンスを拒絶するとしたら「微能感」という言い方でもいいでしょう。
いってみれば、簡単なことです。
「できることはできるし、できないことはできない」
この中間的な(あるいは中途半端な)感覚が、「微能感」です。
「できること」の範囲や量は、そのときどきで変わってくる。でも、そのときどきにおいて「できることはできる」という能力を有している。そういう状態を全体的に肯定していこう、というのが「微能感」の哲学です(今考えました)。
もう一度確認しましょう。「なんでもできる」ではなく、「なんにもできない」ではない、「なにかはできる」という感覚。そして、その「なにか」から始めるという感覚。それは、あらゆる批判的なまなざしを超えて、目の前の存在を肯定する駆動力となってくれるでしょう。言い換えれば、これは諦めの哲学であると共に、肯定と起動の哲学でもあるのです。