Second brain rot
生成AIがからむとさらにやっかいになる
Second brain:
『SECOND BRAIN(セカンドブレイン) 時間に追われない「知的生産術」』の内容紹介より。
あなたが自分の頭脳の外に構築する「第2の脳(セカンドブレイン)」。
必要な情報をすべて蓄えておく巨大な「知の集合体」だ。
日々の学習ノート、個人的な日記、アイデアのスケッチブックが合体したもの。
時間の経過とともに変化するニーズにも対応できる、知識の集合体。
学びのためのノートであり、プロジェクトを整理するツールであり、家計の管理にまでつかえる。
brain rot:
ブレインロット(英: brain rot もしくは brainrot、「脳腐れ」や「脳の腐敗」を意味する)とは、価値の低いと思われるインターネットコンテンツ、またはそれによって引き起こされる精神的・認識的な影響のことである。あるいは、認識機能を害するようなデジタルメディアの使い過ぎ(特に短時間の快楽)を意味することもある。もともとこの単語はα世代やZ世代の人々のオンラインカルチャーを指して使われていたが、現在ではより広く用いられている。
同大学出版局では、「凡庸で取るに足らないオンラインコンテンツの過剰な視聴による精神的、知的水準の低下した状態」と定義されている。
私は昔からノートを書くのが好きで、デジタルツールを使うようになっても同じことを繰り返していました。一番大きいのはEvernoteの影響で、もっとも嵌まっていたころは「なんでもEvernoteに保存してやるぞ!」という野望に燃えていました。
当然のように、目にするWebページは片っ端からクリップです。特定の用途を持たないクリップだけでも1万3000くらいはあります。
さて、あなたが生成AIだったとしましょう。ユーザーから「この中から、面白そうなものを見つけてきて」と言われたらどうでしょう。きっとうんざりしませんか。もちろん、処理する方法はあるんです。でも、ここまで乱雑なコンテキストは、コンテキストの役割を欠いています。ただ情報があるだけ。
もっと単純に考えてもいいです。仮に私が何らかの魔法を使って、自分のEvernoteに「すべてのWebページ」をクリップしたとしましょう。そのとき、その中身はWebと変わりありません。それって意味ありますか。
だとしたら、そのグラデーションのどこに「意味」が宿るのでしょうか。考える価値のある問題だと思います。
何を素材とするか
すごく極端なことを言います。ある人が、安っぽい情報商材にたくさん触れ、その情報を集めた「セカンドブレイン」を作ったら、それは何の助けになるでしょうか。
あるいは、ありきたりな結論しか述べない自己啓発書を情報源として「セカンドブレイン」を作ったら? それは何の助けになるでしょうか。
反語ではありません。つまり「何の助けにもならないでしょ」と言いたいのではありません。脳は触れた情報に影響を受けます。つまり、それらの「セカンドブレイン」も何か方向性を持つのです。それが好ましくない影響のときに、ブレインロットと呼ばれるわけですが、そうした特異な状態だけにフォーカスする必要はありません。
自分が作ろうとしているセカンドブレインは、自分の脳をどういう方向に持っていく助けになるのだろうか。
こう問うことには「意味」があります。
方向性を強めるテクノロジー
一つ言えるのは、”セカンドブレイン”と呼ばれる装置を作ったら、皆が一様に”賢く”なれるわけではない、ということです。そもそもの情報源がどういうものであるのか、そしてそれを自分がどのように摂取しているのかに強い影響を受けます。
たぶん、強固なナショナリストの人が”セカンドブレイン”を作ったら、そのナショナリズムはさらに強まることでしょう。その意味で、まさにこれはテクノロジー(道具)であり、万能の聖杯ではありません。
同様に、「凡庸で取るに足らないオンラインコンテンツの過剰な視聴による精神的、知的水準の低下した状態」の人が、自分の傾向を変えないままでセカンドブレインを作ったら、”凡庸で取るに足らないオンラインコンテンツ”が綺麗に整理され、過剰な摂取をさらに強めるものができるでしょう。
少なくとも、「あれっ、自分ってなんでこれをしているんだっけ?」という問いを抑制する働きは持っていそうです。
有益な情報を適切に処理すれば
だったら、凡庸で取るに足らないオンラインコンテンツなんかではなく、査読論文を対象にして、それを生成AIに処理してもらえばよさそうです。
一見、それに反論する余地はありません。少なくとも、できあがるセカンドブレインの見た目は立派なものになりそうです。
でも、本当にそうなのでしょうか。
アカデミックな厳しい訓練を積んだ研究者さんが、自分の研究テーマに基づいて論文を「読む」(ざっと読む、精査する)のと、なんかよーわからんけど生成AIに処理してもらうのは同じなのでしょうか。
別に知的生産に生成AIを使うな、というラッダイト運動を展開したいのではありません。割合と根源の問題です。
まず割合ですが、100個の論文のどれに対しても一つも「わかっていない」のは、多分何もわかっていないと思います。もちろん、人間が自分で論文を読んだとしても100%の理解に至ることはないでしょうが、だからといってそれを0%と同じだとするのは乱暴でしょう。
何もわかっていないのに、セカンドブレインだけは綺麗に整っている状態を目指しているならば話は別ですが──そもそもなぜセカンドブレインを作っているのでしたっけ?──、そうでないならある程度は自分で「わかる」こと(あるいはわかろうとすること)は欠かせません。
読書メモを作ったことがある人ならご存知でしょうが、私たちは何かを読んだだけでは、ほとんどまったく頭に入っていません。いくつかのフレーズなどが印象に留まるくらいです。生成AIがつくった要約を読んだ場合でも同じでしょう。
もちろん、その人の「成果物」が、強度ある論証を必要とせず、適当な印象を並べてプロモーションのレトリックだけで商品足りえるなら、別にそれでもいいと思いますが、そうでないなら自分の頭を動かし、理解しようと努めることは大切です。
根っこにつながっているか?
もう一つは根源の問題で、そうして整理している情報が、自分の興味の根に結びついているかどうかです。ものすごく気になること、研究したいことと関係しているかどうか。
これはなかなか難しい問題を含んでいるのですが、少なくともその判定を下せるのは「自分」でしょう。
もちろん、自分だったら自分の興味がすべてわかるわけではありません(ここが難しさの原因です)。最初は興味があると思っていたのに、そうではなかったみたいなこともありますし、先入観で興味がないと判断したのにいくつか調べていくうちにぐいぐい嵌まっていった、みたいなこともありえます。
そんな風に認識は変化していくのですが、どうであれ判断を下すのは自分であり、その判断には二つの意味で時間がかかります。一つ目は、ちょっと落ち着いて行う必要があるということで、もう一つは、それまでの経緯を踏まえて、ということです。瞬間的・刹那的な判断ではなく、ゆっくり時間を取り昔を振り返りつつ考える、といったイメージが近いでしょうか。
逆に言えば、次々に大量の情報が押し寄せてくるときには、そうした対応が取りにくくなります。そうなると、情報を手早く処理しているけども、特に意義は感じない、みたいな妙な感じになりかねません(一種のゲームとしては楽しいとは思います)。
まとめ
改めて書きますが、私はノート大好きっ子であり、デジタルツール愛好者です。その延長として生成AIもごくふつうに使っています。
一方で、それらがあるからといって何も考えなくていいというわけではありません。むしろ逆でしょう。より根源的なことを考える必要が出てきている。そんな印象を受けます。
私が求めているのは、考えることを助けてくれるツールです。まかりまちがっても、私の「考え」を代替してくれるツールではありません。セカンドブレインなるものをつくるにしても、それが私のファーストブレインと協調的に動き、その働きを高めてくれるものを欲します。
別にそれが偉いからとかではありません。単に考えることが好きだからです。胸に「考人」と書かれたTシャツを着て歩きたいくらいです。
人にはそれぞれの人生があり、好みがあり、仕事があります。「こうであれ」とは明言できません。でも、自分が向かおうとしている方向について定期的に考えてみることは有用ではないか、くらいのことは言えるのではないでしょうか。


