記事よさらば あるいは HtoHという回路
A Farewell to Article
最近、生成AIで生成されたと思わしき記事を見かけることが増えてきました。正直疲れます。一見まともに書かれていると思って読み始めると、だいたい情報量が多いのです。なんというか「あますことなく」並べている印象。適切に捨てるのが難しいのでしょう。野口悠紀雄風にいえば「書き足すは人の常、それを捨てるのは神の業」なのかもしれません。
もちろん、そういう文章は無視すればいいわけですが、必要な情報が含まれている場合は、さっさと要約してもらった方がよいでしょう。もちろん、生成AIにやってもらうわけです。
主体X→生成AI→記事→生成AI→主体Y
これって何だか無駄っぽくないですか。
媒介体
星新一さんの小説に「肩の上の秘書」という作品があります。ある種の”通訳”ロボットが登場する作品です。
たとえばセールスマンが「こんにちわ」と小さな声で口にしたら、肩の上に乗るインコ型のロボットが「おいそがしいところを、とつぜんおじゃまして、申し訳こざいません。お許しいただきたいと思います」と大きく発話してくれます。すると、相手の主婦の肩にも同じロボットが乗っていて、「ようこそいらっしゃいました……」と同じように発話してくれ、セールスマンのインコが「だれか、と聞いているよ」とその内容を端的に使えてくれます。セールスマンはそれを受けて「ニュー・エレクトロ会社のものだ。電気グモを買え」と応答していくという話で、本音と建て前と”通訳”と機械が絶妙なバランスでマッチした作品なのですが、個人的には「もうインコ同士で直接やり取りしたら」なんて思ってしまいます。
もちろん、それではうまくいかないのが対人間の商売なわけですが、それはそれとして、自分がこれから書く文章がはじめから生成AIで処理されることが自明なら、文章の書き方そのものが変わってくると想像できます。
まず話の余計な導入が一切不要ですし、感情的な配慮(「こう書くとお怒りになる方もいらっしゃるかもしれませんが……」)もばさっとそぎ落とせます。中途半端なメタファーよりも、具体的な事実を書き並べる方が”誤解”が減る可能性は高いです。たくさん情報を並べるのは問題ないでしょうが、脱線的な話題は要約を難しくするのでなくした方がよいでしょう。
現時点でははっきりしませんが、処理しやすい形のフォーマットがあり、いずれはプロトコルのようなものになるかもしれません。生成AIが他の生成AIに向けて情報を手渡すプロトコルです。
おそらくそれは、もう「記事」とは呼ばれないものになるでしょう。
HtoH
高度な情報処理、あるいは、単なる情報伝達はそれでよいでしょう。たとえば、会社のトップダウンの伝達なんて、インコ型の情報インフラで処理されるのが一番「効率的」だと思います。もっと事務的でいい。
見回してみると、この「高度情報社会」において人間が書かなくてもよい文章がやまほど生成されています。それは生成AIにやってもらえばいいでしょう(ただし、生成AIの利用コストが高くなりすぎると、再び人間の低賃金労働者が手動でコピーしてまわるという悲惨な未来像も描けますが)。
じゃあ、文章のすべてがそうなればいいかというと、さすがにそれは早計な気がします。
人間が、別の人間に向けて書く文章。
CtoC(Consumer-to-Consumer)になぞらえていえば、HtoH(Human- to-Human)な文章もきっと必要です。それは効率層ではなく、文化層での必要性です。人はパンのみにて生くるにあらず。文章という媒体は、多様な層でその「利用価値」を持っているのです。
個人的に危機を感じるのは、そうした区分けをせずにこの話を「混ぜて」議論してしまうことです。生成AIを介して効率的な情報伝達を行うことと、人間が別の人間相手に文章を書くことは、基本的に別の領域の営みとして捉えるのが適切である──少なくとも機能的である──と感じます。
それもまた記事ではない
では、そのHtoHって何なのかを考えてみると、畢竟それもまた「記事」ではないな、と思い至ります。一番名指すのに近いのは、「手紙」でしょう。誰かが、誰かに向けて書く文章。
この「手紙」という言い方は、非常によく出てきます。ブログなどでも、「手紙」として書いている、なんていい方がされます。
問題はそのたとえがどれだけリアリティを持っているのかで、たとえば今20代の人はあまり「手紙」を書いたことがないのではないでしょうか。つまり、それを書くための時間を取り、相手のことを思い出しながら、文章をしたためる、という経験です。
SNSで何かを投稿するのとはあきらかに違いますし、やったことがないのでわかりませんがLINEで短文を即時的にやり取りするのとも違っているはずです。
(ただし、これらのメディアで”手紙”が書けないと言いたいわけではありません。メディア・ツールと接するときの姿勢の話で、それがどうアフォーダンスされるのかの傾向の話です)
つまり、HtoHの文章はきわめて「手紙」的であるのだが、しかしその「手紙」の様式、もっと言えば知的性生産の技術はあまり普及していないのではないかとちょっと思ってしまうのです。
ちなみに、梅棹忠夫の『知的生産の技術』の第8章は「手紙」で、手紙の形式化の否定が、個々人の責任によって名文を生み出さなければならない圧を生み出してしまい、結果的に手紙が書かれなくなってしまったのではないかと面白い議論が展開されています。この点は、形式化を否定して「自由に」書きさえすればいいと主張する方が主張者にとっては楽だということも加味して考える必要があるでしょう。
手紙の復興
というわけで、メカニカル知的生産の技術としては、人間が書く必要がないものはどんどんツールに書いてもらう方向に進むとして、それとは別に「人間が、人間に向けて書く」ための知的生産の技術も必要である、ということを個人的には主張したいです。少なくとも、その二つを混ぜて考えないようにすること。
昨今、「日記」が静かなブームになりつつあり(あるいは繰り返される何度目かのブーム)、それはそれで喜ばしいことですが、「手紙」というものも改めて考えたいところです。あるいは、「日記を自分に当てた手紙」だと見立てることで、二つを統合する理論(というかなんというか)ができるかもしれません。
でもってこれは、「社交」というテーマともおそらく接続しているはずです。

