いつの間にか変わっていたゲーム
いつの頃からだろうか。ブログにまつわるゲームが変わってしまったと感じていた。
起点となるのは、Googleアドセンスの普及に違いない。厳密に検証したことはないが、それでも変化したルールから逆算すれば、かのサービスが元凶になっている可能性は否定しがたい。
それまでのブログは、どうであれコンテンツで勝負するものだった。コンテンツという言い方に語弊があるなら、「おれが書いたもの」で勝負するという感じだ。
ピッチャーが大きく振りかぶって全力投球し、キャッチャーがそれをバシっと受けとめる。そういう「勝負」である。むしろそれを勝負と呼んでいいのかすらわからない。ともかく、昔はどんな球を投げるのかが大切だった。豪速球であれ変化球であれ、その球筋が投手についても語っていた。
アルファブロガーと称された人々は、その球筋で一定の認知を得た人たちだった。少なくとも私はそう考えている。彼らもきっと多数のアクセス数を持っていたが、それは付随的な要素でしかなかった。文章を読めば、納得せざるを得なかったのだ。なるほど、こいつはアルファブロガーだと。彼らのブログが何万PVとかだとかは、そういう納得感を補強するものでしかなかった。
しかし、その事情が少しずつ変わってきた。数字が前面に出始めて、球筋が後ろに引っ込み始めたのだ。
ものすごい人気のブログだというところに訪問してみるも、肩透かしを受けることが増えた。別に面白くとも何ともない。役立つ事が書かれているかもしれないが、そんなことは別の場所にだって書いてある。素振りの練習ならバッティングセンターに行けばいい。俺が読みたいのはこういう文章じゃない。そう思うことが増えた。
しかし、勢いは止まらなかった。むしろ時間とともに強くなった。
さまざまな書き手にもその影響が出てきた。いわく「読まれやすい文字数はこれこれ」「クリックされやすいタイトルの付け方」、揚げ句の果てにSEOを意識した文章である。そこには球筋なんてものはない。ただ、機械的なボールの動線があり、スピードメーターに表示される時速があるだけである。
まったく面白くはなかったが、それでもそうした動機付けによって、これまで表に出てこなかった情報が出てくるのは良いことのように思えた。何事も良い面を見つけることが人生を楽しく生きるコツである。
しかし、やがて他の記事からパクって多少表現を変えたような記事が現れはじめた。SEO対策のためなのか、必要な情報に加えて前後に水増しの文章を加えるものも増えてきた。いや、それが当たり前になった。そうした記事は、検索と情報摂取の効率を著しく悪くしている。evilなのである。
しかしながら、悪貨が良貨を駆逐する現象はここでも起きた。そうした記事ほど検索結果の上位に現れやすいのだ。そうすると、まともな記事を書いている、しかしドメインパワーを持たない人の記事はどんどん読まれにくくなる。これほどバカらしいことはない。
そのバカらしさ、というモチベーションの低下を生み出していることもまたevilな結果と言えよう。
そうなると、読んでもらうためには、まともな記事を書く人もせっせとSEO対策しなければならなくなる。Googleの方を向いて記事を書かなければならなくなる。
それがゲームが変わった、という感覚だ。いつから僕たちは、「検索で見つけられてもらえるように」記事を書くことになってしまったのか。はたして、そんな動機でブログを始めたのだったか。むしろ、あの豪速球にあこがれて、自分でも(ヘタなりに)球を投げたかったのではないか。
しかし、何の断りもなくゲームは変わってしまった。自分だけが変わらないでおこうと思っても、外部が変わるなら変化せざるを得ない。それはもう仕方がないことである。
一方で、いまこうしてSubStackというメールメディアがある。なんなら最近の個人ポッドキャストなんかを加えてもいい。こうしたメディアは、古き良きブログと同じような匂いを感じる。同じゲームができる感覚がある。
もちろん、そこではもうGoogle経由で「一発当てる」ような夢は見れないだろう。しかし、そんな夢は始めから抱いてなかったのだ。それは後付けで、メディアによって醸成された夢である。
そんなものがなくたって僕たちは文章を綴り、誰かに送り届けることを続けられる。自分で自分のゲームを始めることができる。
だから僕もこうしてボールを投げている。誰かに届くだろうと信じて。Googleなんかを経由せずに。