教師のように学ぶ
ドメイン駆動開発(DDD)について気になったので、何か本でも読もうかなと思ったのですが、まずはClaudeとかに聞いて感じを捉まえてからにしようと決めたときにひらめきが訪れました。以下は、そのときのプロンプトです。
ドメイン駆動設計を解説するWebサイトを作るとします。当然、ページの構成を考えなければいけませんね。まず、どういう構成がいいか考えましょう。
彼らに「ドメイン駆動開発とは何ですか?」と聞いても一つの返答内に収まる答えしか返してくれません。質問を重ねれば部分的に詳細は得られますが、全体像はNullです。書籍を読むのはまさにそれをサポートする目的があるわけですが、むしろその書籍コンテンツを生成AIと一緒に作ろうとすればいいのでは? とひらいめいたわけです。
その後、想定読者・コンテンツの切り口・目次案などが検討され、本文が出力されました。私が内容を読み、文体などのチェックを経て続きをどんどんと出力してもらいます。
ポイントは、この作業をしているときの私は情報の受け手よりも情報の送り手の意識が強くなっていた点です。つまり、説明を受けて、それをただふんふんと聞いているのではなく、「この話で理解できるか」「説明は十分か」という観点を働かせているのです。言い換えれば、このコンテンツが「教材」として十分な強度を持っているかを気にしながら読んでいたわけです。
私の物書き仕事の経験から言えるのは、「人は教えるときに、一番深く学ぶ」ということです。実際に何かを説明しようとするならば、(普段は鈍感なままで済ませている)自分の理解に敏感にならざるを得ないからでしょう。知識のギャップに自分で気がつけば、情報の吸収力が飛躍的に上がります。
というわけで、これを「Study Like a Teacher」と名づけましょう。あたかも教師であるかのように学ぶ、というメソッドです。教師の帽子をかぶる、という言い方をしてもいいです。
note making
たとえば学校の先生が授業・講義のためにノートを作るとき、漠然と作っているはずはありません。そこに書かれる情報の意味・構造・関係・展開、といった要素を踏まえながら書くはずです。転写ではなく、情報整理が行われているわけです。
with Claudeで作ったノートたちは、おおむねそういう形式になっていました。私が学ぶためのテキスト(ノート)が着実に増えている感覚があります。
とはいえ、with Clauda の場合だけではないでしょう。何か知識を学ぼうとするとき、漠然とそれを行うのではなく、他の人にその内容を説明するつもりでノートを書いてみる。つまり情報整理を通してノートをつくってみる。そのフィーリングが大切ではないでしょうか。
実際、ブックカタリストというポッドキャストで本を紹介するとき、普段とは異なる深度での精読が生まれています。人に説明できるようにするために読む、という自律と他律の重なり合うところで、深い学びが生まれているのです。
そこで、情報整理を通して理解を深めるためのノートづくりを「making note」と呼ぶことにしましょう。広くノートをとる行為は「taking note」で、学び/説明のための情報整理を経たノートづくりが「making note」です。
教師が作る講義ノートは、making noteされたもの。その板書をただ書き写しただけの学生のノートはtaking noteされたもの。
まだ雑な区分ですが、ひとまずそういう見通しを持っておきます。
販売される情報整理技法
さて、インターネットの世界ではよく「情報整理」のメソッドが販売されています。「これを使えば、あなたも情報強者になれます!」のような謳い文句で売られているものたちです。
なにせそうしたメソッドを紹介する人たちは、ものすごく物事を理解している(ように見える)ので、そのメソッドに確かな効果があるように感じられます。
でも、差分はうまく取り除けているのでしょうか。
つまり、その人たちは自分のメソッドを売るために人に教えることをする必要があるから理解が進んでいるのであって、そのメソッドの効果は実はあまりたいしたことがないかもしれない、という差分です。
もちろん、ほんとうにそのメソッドに高い効果があるのかもしれません。それは事前には判定できないものです。しかし、そのメソッドを使ってもたいした成果があげられないとしたら、それは「情報の受け手」のままであるからなのかもしれない、と考えることはできるでしょう。
注意の矛先は大切
たとえば漠然とバットを振るのと、自分のスイングに注意を向けてバットを振るのとでは練習の成果はぜんぜん違ってくると思います。それと同じで、知的生産活動においても何に注意を向けて行うのかは──メソッドのはるか手前で──重要だと感じます。
その意味で「教師のように学ぶ」はメソッドというよりも、注意の向け方のモデルようなものです。学ぶことと教えることを切り離さず、むしろ意識的に重ねようとすること。
逆に言えば、あなたを「情報の受け手」に固定しようとするあらゆるものは、むしろ学びの邪魔になっているのかもしれません。



