ブログというメディアのスタイル
「ブログとは何か」という定義は難しいが、その言葉を聞いて思い浮かべるイメージにはある程度の共通性があるだろう。トップページがあり、そこには記事が新しい順に並んでいて、カテゴリーやらタグやらで分類がなされている。そういうイメージだ。
ブログは、Weblogの略称であり、ニュースメディアのアンチテーゼとして米国で成長した。日々起こる出来事に対して、ネット側から(つまり、非-マスメディアから)何かを言う場所。それがブログというメディアのジャーナリズム的側面だと言える。
もちろん、ジャーナリズムとはジャーナルであり、ジャーナルは日記的な側面を持つ。日々、自分の身の回りに起こる出来事を綴る日記が、ブログというフォーマットに合致したのは偶然ではない。それら、基本的に「日々起きる出来事について言及していく」という点で共通項を持つのだ。
よって、ブログでは、基本的に最新のエントリーが一番目立つように表示される。過去に書いたものから順番に読まれることではなく、最新の記事を、それだけ取り出しても読めることが想定されてUIが設計されている。当然、記事もそれに引っ張られる。
それは、ニュース的な情報を更新するメディアのあり方としては実に最適だったと言えよう。一年前の「最新ニュース」は、今日それほど大きな価値を持たない(考古学的な立場を除けば)。だから、一年前の記事などトップページからダイレクトにアクセスできる必要はない。検索で見つかればいいし、それもメインの使い方ではない。
ブログというメディアには、はじめからそうした精神性が埋め込まれている。ブログを当たり前のように更新している僕たちは、──マクルーハンが指摘するように──そうした記事の書き方が心身にまで浸透してしまっている。
はたしてそれで良いのだろうか。つまり、日々新しい情報を追い求め、過去の情報をどんどん切り落としていくような「更新作業」が、メディアのあり方としての最適解なのだろうか。言い換えれば、すべてのメディアがニュース化してしまっていいのだろうか。
もちろん、答えはノーだろう。ニュースはニュースとして存在すればいいが、そうでないあり方も必要であろう。しかし、あまりにブログに親しむうちに、私たちはその感覚を忘れてしまっていた。
最近、「とほほ」さんのサイトにアクセスしたとき、私はその懐かしい感じを思い出し、「そうだ、こうしたものが今のWebでは欠落しているのだ」と感じた。静的サイトとして構築されるそのサイトは、「ひとまとまりの情報を、順序よく伝える」ために整備されている。毎日新しい更新で、過去の情報を後ろに追いやるブログ的なメディアのあり方とはまったく異なっている。
そして、私たちが深く情報を受けるのは、やはりそうした構築されたメディアなのだ。文脈がデザインされたメディアなのだ。
これまでは、ブログと本などが対比的に語られてきたが、実際その対比は、「フローとして流れていくメディア」と「書き手がストラクチャーを構築したメディア」の二つの形が適切なはずである。それぞれのメディアには特徴があり、役割がある。そのことを、僕たちは今一度思い出すべきだろう。
その点で、ブログとTwitterはよく似ている。私たちは常に「最新」のものだけに目を向ければいい。でも、そういう情報摂取のあり方は、瞬間的享楽はあるものの、深みのある愉しさはもたらしてくれないことが、経験としてわかってきてしまった。
だから、僕たちはブログはブログとして続けながらも、それとは異なる情報生成のあり方をもう一度模索すべきなのだろう。ブログだけが、ブログというフォーマットだけがメディアではない。情報を他者に伝えるためには、要請されるさまざまな形があるはずなのだから。