「いのちをだいじに」モード
回復してきたとのことで、なによりです。
ちなみに僕は、回復して以降もずっと「いのちをだいじに」モードでやっています。というか、いのちを大事にしないでいったい何を大事にするんだ、という感じですね。別に魔王を討伐しようというのでもないのですから。
一つ思うのは、しんどくなったらしんどくなっていることを周りに伝えるというのはとても大切なことだと思います。家族などに話すのもそうですが、職場などいわゆる「利害関係者」──自分がしんどくなったことによって影響を受けると思われる人たち──に話すことはもっと大切かもしれません。もしそうすることができれば、しんどくなったときに「頑張る」以外のコマンドが使えるようになるからです。選択肢が増える。自分でそれを選べるようになる。言い換えれば「どうしようもない」という気持ちから逃れることができる。そんな感じがします。
僕も今は原稿が間に合いそうにないなら、無理してそれを挽回するのではなく──申し訳ないなと思いながらも──編集者さんにその胸を伝えます。だっていのちが大事ですから(あるいは家族が大事ですから)。もちろんそのことによって迷惑はかけているわけで、そのことは念頭に置きつつも(礼儀は大切です)、でもそれよりも大切なものがあるならば仕方がありません。ばっさりと割り切ることが必要です。
最近『限りある時間の使い方』という本を読みましたが、その本でも似たようなことが書いてありました。やりたくないことをやらないのは簡単であるがそれで根本的な問題は解決しない。「やるべきだ」とか「やりたい」と感じているの中から一つのものを選び、それ以外を捨てる決断こそが必要なのだ、という話です。
哲学には「なぜこの世界は「ない」のではなく、「ある」のか」という有名な問いがありますが、私がこうして生きていて、世界があるということ自体が驚嘆すべき事柄です。もうそれ自体ですごくプラスというか 受け取っているわけです。それ以上の何もかもを望むというのは望みすぎというものでしょう。たった一つのことですら、それを選んだからといって十全な結果が得られるわけではありません。人間はそんなに万能ではなく、「自分」はさらに能力が劣っているものです。
だから選ぶ一つを選んだら、あとはまあどうでもいいか、と割り切るのが矮小で非力な人間(あるいは僕たち)にできる最大限のことなのでしょう。たぶんそのとき、『夜と霧』で示されているような考え方の転換が起こるのだと思います。