今日、noteでObsidianのbases機能を紹介する記事を書きました。
基本的には自分が使うために調べたことをまとめただけの内容なのですが、サンプルのスクリーンショットを撮影していたときのことです。
私が書いた原稿のファイルには、type: draft が割り当てられているので、それでフィルターした結果です。さらに、投稿先の情報がproject: hoge で割り当てられているのでそれを表示したところ、いくつか抜けがありました。さらに、投稿先のurlもsourceとして記述したので表示してみたら、埋まっている方が少ない感じでした。
この一覧を見ると、「ああ、埋めなきゃな」という感じがふつふつと漂ってきます。言い換えれば、”足りない”感じがするのです。この一覧を見るまでは、まったく感じていなかった不足感が出てきたのでした。
別に困っていないのです。project情報が欠落していても、urlが不足していても私の日常的な知的活動に支障はありません。なにせ「書き終えた」原稿です。今アクティブに動いている情報ではありません。なければないで成立してしまうメタ情報です。
でも、こうして一覧にして並べると、あきらかに「これは足りていない」と感じられてしまいます。比較というのは、これまで強く人間の認知を、もっと言えば情感を変化させるのだなと感じました。
正直言って、「ないならないでいい。困っていないなら放置」が正解だと思います。If it ain't broke don't fix it. の精神はこうした改善工程における重要な指針です。でも、埋めたくなってしまう気持ちがたしかに生まれているのです。
あらかじめ十全に埋めているプロパティーを使うのはよいでしょう。それがなければ困る情報を埋めていくことも大切だと思います。しかし、特に使わないプロパティーにまで必死になるのは何かがねじれている気がします。
これはミクロでは、ノートの一覧によって不足感が感じられるという話ですが、マクロで言えば、「私のやり方」と「あなたのやり方」を並べてしまうことで起こる不足感の話でもあります。
そのノウハウって、本当に必要なものでしょうか。壊れていないものを、直そうとはしていないでしょうか。