インターネットにおける祭りと場
技術書典9が開催されている。実に楽しそうだ。そして、ちょっとうらやましい。
知的生産の技術でも似たような祭りが盛り上がればいいと思う。というか、本作りは知的生産erの得意分野だろう、みんなもっと頑張ろうぜ、記事を書いて、本を書こうぜ、という誰にも届かない心の中のエールを送ってしまう。
もちろん、KDPなどのセルフパブリッシングでこつこつと知的生産の技術に関する本を書いている人はいるのだろう。しかし、そうしたものはまず目に入らない。告知不足もあるだろうが、それ以上にネットの情報が拡散的かつ刹那的すぎるのだ。広がらない情報は目に入らないし、目に入った情報もあっという間に押し流されてしまう。これでは、なかなか「これ!」というものと出会えない。
その点、技術書典9のようなイベントは、そこにジョインすれば、興味を持っている人たちの集合と接することができる。知ってもらえる可能性が持てる。その意味で、ネットの祭りとは、インスタントな「場」の構築効果を持つ。皆がそこに集まってくる。同じ情報を見て、同じ話題に言及する。そういう力を持つ。
日常生活における祭りとは、日常と対比をなす非日常性の創出装置である。おそらく、インターネットでも同じだろう。ネットの「まつりごと」は、押し流されていくタイムラインの流れに、一時的にであれ抗うことである。まるで、生命とエントロピーの関係のように。
知的生産の技術においても、そうした場=祭りの創出が必要なのだろう。少なくとも、「もっと持ち上がって欲しい」という欲望をうちに秘めているなら、他のイベントをうらやましがっているのではなく、そうした動きを自分でも模索していかなければならない。
一つには、毎月発行の電子雑誌を作ってそこに投稿を呼びかける施策があるだろう。これは、かーそるの運営がある程度こなれてきたらやろうと思っている。一ヶ月に一回なのか、二ヶ月に一回なのか、そのペースはわからないが、2,000字程の文章を書ける人は、きっとごろごろと転がっているに違いない。
でもって、そういう雑誌という場(あるいは出版という祭り)の中で、企画や執筆スキルの相互作用は切磋琢磨が起きたら面白いと考える。
もう一つには、技術書典のように、年一回期間を決めて、その期間中に新刊を発売しようというイベントを催すことだ。一年に一冊、2〜4万字の小冊子サイズの電子書籍を作成することは、それほど過度な負担とは思えない(私は、書き手の負担をひどく気にするのだ)。むしろ、そういうイベントがきっかけとなって、「よし、本を書いてみよう」と思う人が出てくるかもしれない。そうなったらしめしめである。
もちろん、詰めなければならないことは山ほどある。でも、何もせずに傍観して、ただこの世の趨勢を嘆いているだけなのはまったくもって性に合わない。DIYが、私の基本的なマインドセットである。
最初から大きい動きにする必要はない。なんなら、すでにセルフパブリッシングしている人たちに向けて、「この辺の期間に一緒に新刊を発売しませんか」と足並みを揃える提案をするところから始めてもいい。
で、それに何かしらの名前を与えて、イベントに仕立てあげてしまう。これも立派なマーケティングであろう。
ともかく、動機付けと告知効果を共に生むこと。そして、面白そうだと感じられること。それが大切である。
もちろんそれは、「私にとって」面白いかどうか、ということである。そこを外してしまっては何もならない。すべてはそこから始まるといっても言い。
こういうことを考えて、実行したくなるということは、私はどこかプロデューサ気質というか、仕切り屋の傾向があるのだろう。まあ、何事も役割は分担されてナンボである。主役も入れば、監督もいて、大道具さんもいる。そうやって世界は回っている。
インターネットにおける「場作り」とは、そうした人たちを広く集める装置になるはずである。