第二回:ブログは何を伝えてきたのか
とても長い間ブログを書いてきた。
そのブログはいったい何を伝えてきたのだろうかな、などと物思いにふけることがある。
タイムラインを覗いていても、「ああ、それについてはブログに書いたよ」とほのかな憤りと共につっこみたくなることもある。でも、虚しいツッコミだ。
本を思い出してみるといい。
一冊の本を読み終え、「あ〜、面白かった。大切なことがいっぱい書いてあったな」とほのかに理解した気分でいて、一ヶ月後たまたまその本を読み返したら、その大切なことの大半を忘れていた経験は、多くの人がお持ちだろう。
だいたい、一度読んだくらいで完璧に頭に入ると思っているほうが、おこがましい。人間の脳は、ひどくうまく動くこともあるが、それと同じ機能が不要なものをどんどん忘れさせていく。
だからこそ、私たちは本を買い、自分の本棚において、何度も読み返すのだ。
Webにおいても同じである。
私は、「プログラマの心の健康」というページを何度も読んだ。何度も読むことで、それを心に染み込ませた。本であれ、Webであれ、そのような邂逅は必須なのである。
しかし、ブログはどうであろうか。
ブログは、日々投稿され、時系列に時期が並び、古いものはどんどん「後ろのページ」に追いやられていく。そして、Googleがそうであるように、後ろに行けばいくほど、自分を含む訪問者には参照されなくなっていく。省みられなくなっていく。
ほじめから、そんなものがなかったかのように、流れていく。消え去っていく。
そのことは、Tumblrを使っているとよくわかる。Tumblrでは定期的に過去のコンテンツがリブログされる。もう一度記事が発掘され、新たな読者の出会いと共に、既存の読者との邂逅が生じる。
では、ブログはどうだろうか。タイムライン的、RSS的に消費されるブログに、そのような邂逅は生まれるだろうか。EvernoteのWebクリップもさほど世間で有り難がられているようには感じない。
つまり、一度きりで終わってしまうのだ。そして、一度きりでは、人の心にすべりこむことは極めて難しい。絶対に不可能とは言えないが、よほどの尖り方が必要だろう。
つまり、極論すれば、ブログは「忘れ去られるためのメディア」である。常に新しい情報が追加され、検索順位が更新されていく。心に刺さったコンテンツを何度も摂取するのではなく、とっかえひっかえに新鮮な情報を摂取していく。そういうメディアになりつつあるわけだ。
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いくつか考えはある。
一つは、自分で(読むに耐える)過去記事を発掘して、それをSNSに放流していくことだ。つまり、自分でコンテンツの循環を作り出す(あるいは促す)。
もう一つは、ブログのトップページをリデザインして、大切な記事が目に留まりやすくする手もある。それと同時に、自分もその記事に手を入れて、読むに耐えうる情報であることを維持していく。
そして最後に、ブログとは違うメディアに大切な記事を移すことがある。端的に言えば「本」にするわけだ。別にEpubでなくてPDFでもいい。本というパッケージメディアに移し、読み手が何度も読むことを実施しやすくする。
何にしてもブログは流れていくメディアである。書けばストックになるというが、それはGoogleの検索で引っかかるものだけを指す。それ以外は、人々の記憶から消え去り、検索もされず、ただ読まれるのを間って、5ページめとか6ページ目に鎮座しているにすぎない。
それで良いのだろうか。
その是非はわからないが、少なくとも私は十分ではないと感じる。端的に言えば、不満に感じる。
だから、上に挙げたような「施策」をいろいろ実行していくことになるだろう。ひとときの情報欲求を満たすだけでなく、他人の心の奥に住み込んでしまうような情報を届けるために。