0008 : Radio第86回「2021年最初の配信ですが今年の抱負を考えるのは厳しい状況のためまずは1ヶ月分の過ごし方を考えてみたよ」 - Beck‘s Hacks Letter
「日記を書く」という目標、とても良いと思います。
私も不調なときは、ささやかなデータを取っていました。手帳の見開きに表組みを作り、そこに一週間分のマス目を作ってその日の天気や気温、歩いた歩数(iPhoneのデータ)などの数値的データと、内服やこなしたストレッチなどをチェックする欄を設定し、一日の終わりにその表組みを埋めることをしばらく続けていました。
効果はたぶん、三つあったと思います。
まず、「何かすること」を自分に設けたこと。仕事の量を激減していたときは、言葉通り何をしてもいいし、しなくてもいいのですが、そうした自由さは宇宙空間を漂う人間のようにひどく不安定な感覚をもたらします。その点、「毎日記録をつけること」は、その意義がどうであれ、自分に「やること」を課してくれます。
その「やること」は、しかし頭を使うものではありません。単純作業です。しかし、気温と日付は毎日同じではないので、単純作業とは言っても変化はあります。続けるのにちょうどよい按配の「複雑さ」でした。
さらに、記録を残すことで、「今日はとにかく何かをしたぞ」という気持ちになれます。たくさん歩いた日もあれば、それほど歩かなかった日もあり(インフルエンザにかかったときは一日5歩とかの日もありました)、その記録はまちまちなのですが、ともあれ何かのデータは残ります。強調して言えば、自分の「歴史」が手帳に刻まれるのです。
不調のときは、頭の具合もあまりよろしくなく、記憶も鮮明よりはあやふやな方に近いので、記録としてきちんと残しておくことで、自分が「生きてきた」結果として確認できます。
トータルでみて、それにかかるコストに比べれば、得られたメリットは大きかったと思います。
とは言え、なんやかんやでそうした記録をとるのもやめてしまいました。不調の感覚が減り、元気の感覚が増してくるにつれ、そうした記録が価値あるものではなく、むしろ手間がかかるものだと認識するようになったのです。それはたぶん、三輪車に慣れた子どもが、いよいよ補助輪を取り外す準備ができたような感じなのでしょう。
人は記録をとるために生きているわけではありません。それでも、記録をとることが確かな助けになってくれることはあります。
ともかく気長にやっていきましょう。小さい記録を毎日とり続けていくことは、たとえばそれが写真を取るようなことであっても、たしかに何かをもたらしてくれる、と私はそんな風に感じています。