きちんと流れを見つけてへの返信メールの中身
こんにちは。
メールを拝読しました。
"物語自体が「あるべき姿」を知っているかのよう"という現象は、物語を書いているときによく遭遇します。というか、僕が書く物語はすべてその力に頼って書いているようなところがあります。物語の自立性に任せること。
もちろん、完全に物語任せではなく、書き手のチョイスなり判断なりは出てくるのですが、あまりでしゃばるようなことはしませんし、でしゃばるようなことをすると書けなくなる怖さがあります。
サバンナの日常風景を撮影している映像監督などは、似たような感覚を持っているかもしれませんね。素材と物語はそこにある。あとは視点とframeの選択だけ。そういう感じです。あるいは、内に秘めた自立性に任せる(でも、ちょっとだけ口を出すこともある)という点では、子育てに近いものがあるのかもしれません。子供を育てたことがないので、想像に過ぎませんが。
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これまで僕は、説明文を書くときと創作文を書くときで書き方を分けていました。前者は、読者が迷わないように、徹底的に「現地調査」をしてから執筆に取りかかり、後者は、物語の自立性に任せて、書き手自身がオチも決着も分からないままに書き進めていく、というやり方です。プロット重視とプロットなしと言えるかもしれません。
でも最近、この切り分けが本当に適切なのか、疑問を持つようになりました。
たぶん、私の書く説明文はわかりやすくなっていると思うのですが(感想などからの総合的な判断です)、結果として、文章としての面白さや厚みが欠落しているのではないか、とも想像するのです。
むろん、説明文であれば、文章的な面白さより先に文章が理解されやすいことが目標とされるべきでしょう。それはそれで構わないのです。
でも、説明文でもない、創作文でもない文章を書こうと思ったとき、魅力ある、読みごたえのある、読者をグイグイと引き込んでいく、それでいて知的関心を刺激する文章を書こうと思ったとき、あまりにプロット寄りに立ちすぎると、うまくいかないのではないか。そしてそれは、今後の僕の執筆(という仕事)にとって良くないのではないか。そんなことを考えています。
10年続けても、本を書くことはあいかわらず難しく、楽しい活動です。
今後も、楽しく面白い本の執筆を期待しております。
倉下