必然性のある文章を書く
記事はいくらでも生み出せるようになりました。語彙や文才は関係ありません。書きたいことについて生成AIに投げれば、他人が読んでわかる文章が出力されます。実に素晴らしいことです。
ある人が訴えかけたいことを持っていたとしましょう。現在の政治は間違っているのだ、でも、資本主義を打破せよ、でも、チョコミントは最高、でもなんでも構いません。内に秘めたるメッセージがある。
しかし、文章を書くのがあまり得意ではない。書くのに苦労する上に、書けたものもまったく説得力がない文章になっている。我ながらがっかりしてくる。
そうしたギャップを埋めるテクノロジーとして、生成AIは見事な仕事をしてくれるでしょう。
単純な話なのです。ある人が悪筆で「人に読めない文章」を書いてしまうとき、タイプライターやワープロというテクノロジーは、その人に「人が読める文章」を書く助けになります。それが、字のきれいさではなく、文法や文の構成において補助を提供するのが生成AIです。
この点において、ただ生成AIを使っているという理由だけで生成された文章を却下する人は──たいていその人は自分で文章が書ける人です──、書ける人の傲慢だと私は思います。世の中には言葉を使うのがあまり得意でない人もいて、その人だって世に向けて「人が読める文章」を提出する機会はあってしかるべきだ、と思います。
そういう使われ方をするならば、生成AIはたしかに「開かれ」に向けた(つまりは民主化に向かう)テクノロジーだと言えるでしょう。
そこに必然性はあるか?
とは言え、です。
私はテクノロジー至上主義ではないので、生成AIの利用をなんでも良いものだと言うつもりもありません。あらゆるテクノロジーがそうであるように「使い方」が問題となります。
上で挙げた例では、「ある人が訴えかけたいことを持っていた」としました。訴えかけたいことと実際に作成できることのギャップを埋めるためにテクノロジーが使われていたのです。
では、そもそも訴えかけたいことがないとしたら? 言いたいこと、書きたいことがぜんぜんないけども、手軽に出力できるから生成する? あまつさえそれをWebの半公共空間に暴力的な数量で押し込む?
これは好ましくない使い方でしょう。ようはその生成に必然性がないのです。
偶然的な必然性
この「必然性」という概念はなかなか扱いが難しいものです。
一つには、その当人が避けがたいと感じる情感です。なぜだかわからないけども、とにかくそれについて言いたい、書きたいと感じてしまうもの。「そうせざるをえない」と感じる対象や行為。
しかし、もう一つにはそうした必然性が獲得されるのは、基本的に偶然です。その人がどんな歴史を歩んできたのか、たまたま何が起こったのか、誰と出会ったのか……、こちらの選択とは関係なく、また微細の世界の揺れがそのときどきで生じます。それらに影響を受けて、たまたまその人が獲得した情感。しかし、当人にとって、もうそれは避けがたく感じるもの。
それを必然性と呼ぶとしたら(『「書くこと」の哲学』(佐々木敦)を参照しています)、まさにそれこそがその人の固有性と結びついているでしょう。
それと比べると、「これを書けばバズるから」という理由で説明できてしまうものは、当人にとっての必然性を持ちません。そうした説明は、合理性を持つ存在ならば平均して頷き、またその条件が崩れたらすぐさまに放棄できてしまう行為でしょう。必然性があるものは違うのです。そんなフラットな説明ではまったく肉薄できない。だって、自分がそれに必然性を覚えていることが、「なぜだかわらかない」のです。
もちろん、説明を試みることはできます。しかしどう説明したところで、うまく言い表せている感じがしない。当人の根っこの部分につながっている動機ほど、そのようになります(根は地上からは見えないというメタファーを考えてもよいでしょう)。
同じことは、経済合理性をイデオロギーに置き換えてもいいです。単純な説明で成立するようなものは、当人の歴史と関わりを持つ必然性とはあまり関係がありません(これは経済合理性の追求や政治思想の探求が、必然性とはかかわりないという主張ではない点に注意してください。単純に説明し切れるかどうか、という点にアクセントがあります)。
必然性のある文章を書く
生成AIの登場で、必然性がまったくなくても文章を大量に生成できるようになりました。これはぜんぜん素晴らしいことではありまんせん。端的に言って「高効率でゴミが生み出されるようになった」だけです。ブルシット・ライティング。
とは言え、そうした事態は生成AIではじめて生まれたわけではなく、いわゆるプロ・ブロガーブーム期に「効率的に儲かる記事を大量生産する」みたいなノウハウが流通していた頃から存在していました。それがもっと巧妙化(ないしは文章が洗練化)しているのが現代です。
単純な意見として、「言いたいことが特にないならば、無理して書かなくてもいいんじゃない?」と思うわけですが、社会がプラットフォーム化し、生活がコンテンツ化する社会にあって「何かを発信すること」が切実な意味を持つようになっている、あるいは私たちがそのように追い込まれている、という状況の可能性は検討しておく必要があります。
だからせいぜいできることと言えば、自分が文章を書くときは、自分なりの必然性と結びついたものにしよう、というモットーを掲げるくらいです。たいそうな文章を書くとか、意義あるメッセージを添える、といったことではなくて、うまく理由を説明できなにせよ、自分がそれを書きたいと感じるものを書く、ということです。
もっと弱く定義してもいいです。「書きたいと思わないなら、書かない」。その上で、日常へのまなざしを変えて、何か書きたいものとうまく遭遇できるようになれば、おのずと書きたいことも出てくるでしょう。そうした枠内に収まる限り、文章の作成に生成AIを使うのはぜんぜん悪いことではないと思います。
に「人が読める文章」を書く助けになります。それが、字のきれいさではなく、文法や文の構成において補助を提供するのが生成AIです。
この点において、ただ生成AIを使っているという理由だけで生成された文章を却下する人は──たいていその人は自分で文章が書ける人です──、書ける人の傲慢だと私は思います。世の中には言葉を使うのがあまり得意でない人もいて、その人だって世に向けて「人が読める文章」を提出する機会はあってしかるべきだ、と思います。
そういう使われ方をするならば、生成AIはたしかに「開かれ」に向けた(つまりは民主化に向かう)テクノロジーだと言えるでしょう。
そこに必然性はあるか?
とは言え、です。
私はテクノロジー至上主義ではないので、生成AIの利用をなんでも良いものだと言うつもりもありません。あらゆるテクノロジーがそうであるように「使い方」が問題となります。
上で挙げた例では、「ある人が訴えかけたいことを持っていた」としました。訴えかけたいことと実際に作成できることのギャップを埋めるためにテクノロジーが使われていたのです。
では、そもそも訴えかけたいことがないとしたら? 言いたいこと、書きたいことがぜんぜんないけども、手軽に出力できるから生成する? あまつさえそれをWebの半公共空間に暴力的な数量で押し込む?
これは好ましくない使い方でしょう。ようはその生成に必然性がないのです。
偶然的な必然性
この「必然性」という概念はなかなか扱いが難しいものです。
一つには、その当人が避けがたいと感じる情感です。なぜだかわからないけども、とにかくそれについて言いたい、書きたいと感じてしまうもの。「そうせざるをえない」と感じる対象や行為。
しかし、もう一つにはそうした必然性が獲得されるのは、基本的に偶然です。その人がどんな歴史を歩んできたのか、たまたま何が起こったのか、誰と出会ったのか……、こちらの選択とは関係なく、また微細の世界の揺れがそのときどきで生じます。それらに影響を受けて、たまたまその人が獲得した情感。しかし、当人にとって、もうそれは避けがたく感じるもの。
それを必然性と呼ぶとしたら(『「書くこと」の哲学』(佐々木敦)を参照しています)、まさにそれこそがその人の固有性と結びついているでしょう。
それと比べると、「これを書けばバズるから」という理由で説明できてしまうものは、当人にとっての必然性を持ちません。そうした説明は、合理性を持つ存在ならば平均して頷き、またその条件が崩れたらすぐさまに放棄できてしまう行為でしょう。必然性があるものは違うのです。そんなフラットな説明ではまったく肉薄できない。だって、自分がそれに必然性を覚えていることが、「なぜだかわらかない」のです。
もちろん、説明を試みることはできます。しかしどう説明したところで、うまく言い表せている感じがしない。当人の根っこの部分につながっている動機ほど、そのようになります(根は地上からは見えないというメタファーを考えてもよいでしょう)。
同じことは、経済合理性をイデオロギーに置き換えてもいいです。単純な説明で成立するようなものは、当人の歴史と関わりを持つ必然性とはあまり関係がありません(これは経済合理性の追求や政治思想の探求が、必然性とはかかわりないという主張ではない点に注意してください。単純に説明し切れるかどうか、という点にアクセントがあります)。
必然性のある文章を書く
生成AIの登場で、必然性がまったくなくても文章を大量に生成できるようになりました。これはぜんぜん素晴らしいことではありまんせん。端的に言って「高効率でゴミが生み出されるようになった」だけです。ブルシット・ライティング。
とは言え、そうした事態は生成AIではじめて生まれたわけではなく、いわゆるプロ・ブロガーブーム期に「効率的に儲かる記事を大量生産する」みたいなノウハウが流通していた頃から存在していました。それがもっと巧妙化(ないしは文章が洗練化)しているのが現代です。
単純な意見として、「言いたいことが特にないならば、無理して書かなくてもいいんじゃない?」と思うわけですが、社会がプラットフォーム化し、生活がコンテンツ化する社会にあって「何かを発信すること」が切実な意味を持つようになっている、あるいは私たちがそのように追い込まれている、という状況の可能性は検討しておく必要があります。
だからせいぜいできることと言えば、自分が文章を書くときは、自分なりの必然性と結びついたものにしよう、というモットーを掲げるくらいです。たいそうな文章を書くとか、意義あるメッセージを添える、といったことではなくて、うまく理由を説明できなにせよ、自分がそれを書きたいと感じるものを書く、ということです。
もっと弱く定義してもいいです。「書きたいと思わないなら、書かない」。その上で、日常へのまなざしを変えて、何か書きたいものとうまく遭遇できるようになれば、おのずと書きたいことも出てくるでしょう。そうした枠内に収まる限り、文章の作成に生成AIを使うのはぜんぜん悪いことではないと思います。

