レッテルを貼らない
僕はロバート・B・パーカーのスペンサーシリーズが大好きで、その中でも『初秋』はカバーがぼろぼろになるくらいに読み返している作品です。そこにこんなセリフが出てきます。
"そういうやり方はやめた方がいい。物事を一見もっともらしい名前の下に分類する癖だ。わたしは淫らな女だ、おまえはジゴロだ、という考え方を"
たとえば、「あいつは悪人だ」というレッテル貼りが、この「一見もっともらしい名前」に相当するでしょう。
一旦こうしたレッテル貼りをしてしまうと、話が逆転してきます。つまり、あいつは悪人だから、あいつのやったことはすべて悪いことだ、と。
しかし、実際はその人がやったことが悪いことだからこそ、その人は悪人だと呼ばれるのでしょう。もし、やったことの一部だけが悪いことで、それ以外の大半が悪いことではないのならば悪人という呼び方は変更されなければなりません。もし善いことをたくさんしているなら善人に改められる可能性もあります。
レッテル貼りは、そうした変更可能性を剥奪してしまうのです。
あいつは悪人だから、あいつのやっていることは悪いことで、悪いことをやっているからあいつは悪人だ、という理路の循環がいかに閉塞的なのかは説明するまでもないでしょう。そこでは、変化や動きというものが徹底的に抑制されています。考えることを放棄してしまっているのです。
このことは、他者に向けてのレッテル貼りだけに限られる話ではありません。自分自身が自分をどう認識するのか、という点にも大きくかかわってきます(むしろそちらの方が大きいかもしれません)。
自分をダメなやつとレッテル貼りしてしまえば、自分にまつわるあらゆることがダメなものだと結論づけられてしまいます。その結論は、最初の段階で決定されていて、変更不可能なものです。科学で言うところの反証可能性を持たないのです。独断と偏見。
最大の問題は、科学の論文で変なことを言えば他の人から批判が来る可能性が高いのに対して、自己認識についてはわざわざ他人が介入してくる可能性が非常に小さいことです。それこそ身近な人やカウンセラーでもない限りそこに立ち入ったりはしないでしょう。結果的に、レッテル貼りによる不健全な自己認識が保存され続けるのです。
自分が自分をどんな風に捉えるのかは基本的に自由です。しかしそれはつねに変更可能なものでないと、生きづらさは増していくことでしょう。