「見つかる」と「見つける」
以下の記事を読みました。
どうでも良いことに時間を使っている暇はないので道を探すのは止めて我が道を行くことにした話
孔子は四十にして惑ずとのたまい、四十を不惑と言うようになった。残念ながら、四十の僕は未だ自分の道が見えていない。
孔子は四十を不惑と言ったみたいです。つまり惑うことがなくなった、と。
でもそれは自分の道が見つかったことを意味するのでしょうか。この二つはイコールなのでしょうか。
たしかに道が見えていれば迷うことはありません。でも、「ここに道があるけど、本当にこの道でいいのかな」と惑うことはあるでしょう。道が見えること=不惑とは言えないような気がします。
だとしたら「四十にして惑わず」ということの意味は、道があるとかないとか関係なくとにかく歩いていこうと決意した、ということなのではないでしょうか。
だとしたらまさに記事でBeckさんが為されていたような決意のことが不惑ということの本義ではないかなとちょっと思った次第です。
「天職」みたいな話は巷でもよく聞くわけですが、「天職が見つかる」みたいな表現だと、ただボーっとしていたらあたかも天啓かのように天職という発見が降ってくる、みたいなイメージがあります。
つまり、そこには迷いや悩みなど一切なく、決意も決断も皆無で、ただ答えがそこに示され、ただそれとわかる、という感触です。そこではこちらからの働きかけやコミットメントはぜんぜんありません。ただ受動的に「見つかる」という感じ。
でも、実際はそうではないでしょう。
自分の能力が十全に発揮できるように、あるいは自分が何かしらに貢献できるようにいろいろやってみる。それこそ、それが正しい道であるかどうかなんて気にしないで、そこにある生をまっとうしてみようとすること。その結果として、「ああ、これが自分の天職だったんだ」と振り返る形でわかること。そういうものではないでしょうか。
だからこそ孔子は続けて「五十にして天命を知る」と述べたのでしょう。何かが天職であるという理解はこの天命とかなり重なっている気がします。