意志による制御と距離を置く
仕事をしたい気持ちはあるのに、体がそれに追いついてくれない。とてもしんどい状況だと思います。
私もそういう期間があったので、その痛みが伝わってきます。私の場合は、フリーランスなので裁量があり、ほとんど仕事をしない期間を一年ほど持つことができました。その前半戦はやっぱり苦しかったものの、中盤からは徐々に回復してきて、今に至っています。
やっぱり時間がかかるのでしょう。それも単に時間が経過するのではなく、悩みの種から距離を置いて過ごすことができる時間が必要なのだと感じます。
はっきりいってその期間は物書きの仕事を辞めることになるかもな、という気持ちで過ごしていました。なにせまともにパソコンを開くことも、長時間執筆することも、難しい本を読むこともできないのです。ただ生きているだけで精一杯という状況。展望などありません。というか、展望を持つことが、ストレス源になっていると感じていたので、そういうものを極力持たないように気をつけていました。
自分の心身についてもそうです。ままならない自分の体調がストレス源になっていたのです。それをなんとかしようと頑張れば頑張るほどより辛さが増していました。これまでずっと「意志」を持って自分を制御していたその体制が機能不全を起こしていたのです。
時間が経ったことで、その感覚が少しずつ変化しました。あるいは心療内科の先生に相談をしたことが影響しているのかもしれません。なんにせよ、自分の意思なるもので、自分の心身をどうにかしようとはしないこと。そういうのははじめから無理なんだと諦めること。一方で、心身は──切った指にかさぶたができるように──自然の回復力を持っていること。自分(の意志)としてできることは、そういう回復力を信じることしかない、と開き直ったこと。そういう認識の変化があったように思います。
対処療法とか「だましだまし」的なやり方は、平常時にはそれなりに効果を上げてくれますが、緊急事態にはどうしようもありません。家が火事になっているのにライフハックをしていてもしょうがないでしょう。
もう一つ、投稿の中に「レジリエンス」という表現を見かけましたが、これは困難な状況から復帰できたら「レジリエンスがあった」と言えるだけであって、それ以上の何者でもない気がします。ましてや危機的状況で鍛えるものでもないでしょう。パンパンに膨れ上がっている風船に「レジリエンスを持て!強い意志でもって!」といったところで破裂しちゃうものは、やっぱり破裂するでしょう。
なんにせよ人の心はそんなにタフにはできていません。生物的に考えても、ここまで強いストレスに晒されることに適応して進化してきたとはとても思えないのです。
もちろんそれぞれの人生の進み方は、それぞれの人が決めるものです。それに生きていれば、何かしら変化があったり、思いも寄らぬことも起きたりします。いいことも、わるいことも、区別なく人生は発生します。だからあんまり考え込んでも仕方がないことではあるでしょう。それでも「生きていれば」という前提があってはじめて言えることなのだとは思います。それがキープできていれば、後の選択は別にどうでも構わない、というのは言い過ぎかもしれませんが、それに近い思いを私は持っています。