かつてWebでは個が個としてありながら、なんとかつながろうとしていた。
では、なぜ個が個としてあったのだろうか? それはインターネットが受け皿であったからだ。何の受け皿かと言えば、社会不適合者の受け皿である。
社会には文化が枠組みとして存在し、日本のそれはムラ社会的であった。その均一性になじめない人間は居場所がなかった。そうした人たちに、インターネットは居場所を与えてくれた。もっと言えば、自らでその居場所を作る自由を与えてくれた。
だから、黎明期のブロガーは独立志向が強い。集団行動を嫌い、個人で活動する。それがデフォルトであった。それによって、ブログがマスメディアを保管するメディアとして機能させていた面もある。均一な情報を嫌い、ニッチを攻める。まさにサブメディア・シャドウメディア(シャドウキャビネットのようなもの)的存在である。
ともかく、ブロガーは独立的に行動した。集団を作らずに、グループを作らずに。逆説的に、それが個と個をつなごうとする動きにつながっていたのだろう。大きく一つにまとまるのではなく、個としてありながら、それをリンクさせていく。たしかにそれはノードを接続するというWeb的な発想と合致していた。
一方でその個は、巨大プラットフォームに敗北した。当たり前である。連合しないと個が大企業・大資本に勝てるわけがない。最近、コンビニでもオーナーがチェーン本部相手に訴訟を起こしている事例が増えているが、それらはすべてオーナーが集まっての訴訟になっている。個人では到底勝てないのだ。個人の力は小さい。どれだけ、インターネットが個人に力を与えたとしても、同じものを適切に運用する大企業に勝てるわけがない。始めから決着が見えている勝負である。
個人の限界は、それだけではない。
たとえば、先日PoICという情報カードを使った情報管理システムのWikiを閲覧しにいこうとしたら綺麗さっぱり消え去っていた。そうなのだ。個人で管理されるサイトは、その個人が何かしらの事情を抱えたり、もっと単純にこの世界から去ってしまったらいずれ消えていく。インターネットアーカイブで拾える情報はあるかもしれないが、それはWebの土俵の外にあるようなもので、普通の検索では見えてこない。つまり、ほぼ存在しないに等しい。
あるいは、GitHubではリポジトリの「後継者」を指定できる。そうなのだ。インターネットが使われるようになって、一つの世代が切り替わりうるくらいの年月が経っている。人はこの世を去り、情報はWebに残る。そのようなことが珍しくなくなりつつある。
社会や組織は、存続のための力を持つ。ときにそれが惰性にもなってしまうのが、何かを残していくために働くことは間違いない。一方、個人の活動は、よほど大きなものでもない限り、継続・継承されることはない。あなたは、自分の父親のブログを引き継いで更新する? 実に非・インターネット的ではないか。
個人が自分で築いた知のアルシーヴは、どこかのプラットフォームに吸収されない限りは、個人の喪失と共に失われ、アルケーへの遡行は不可能となる。これは、インターネットの自由の代償だとしても、見逃せない問題である。
とりあえず、もう一度個人にフォーカスするにせよ、単純な個人の知からの復興という形ではすぐに限界を迎えるだろう。かといって、皆が集まって大資本に! というのではミイラ取りがミイラになるだけである。
おそらくは何かしらのアソシエーションがあり、そこで知の委譲が行われることが望ましいのだろう。そして、そのアソシエーションは、固定化して巨大化することを避けるために、常にブリンクしている必要がある。つながっては途切れ、また別の場所とつながる。そういう明滅を繰り返しながら、形を変えていく「つながり」がこれからは必要なのかもしれない。