とうとう、「デジタルノート研究会」というカテゴリへの投稿も100回目を迎えました。
今回はあらためて「デジタルノート研究会」とは何かを考えてみます。
概念先行
最初にこのカテゴリ名を考えたときは、単なる思いつきでした。デジタルノートについて何か書きたいな〜という思いがあり、それをSubstack上でグルーピングするときに識別子があった方が便利なので、ぱっと思いついた名前を与えただけです。
その段階では、「デジタルツールに関する話題を扱う」以上の決定は何もありませんでした。それがいったい何なのかわからないままに書きはじめたわけです。
そのようにしてスタートを切り、こうして100回もの投稿を行ったことで、ようやくそれがいったい何なのかを考えることができるようになったと感じます。概念先行による、遡及的定義。
これも一つの知的なプロセスの進め方です。
デジタルノートについて語りうること
書いてきてわかったのは、デジタルノートに関する話題は大きく二つに分けられる、ということです。
一つは、具体的なツールについての話題。たとえばObsidianの操作方法や、実際の用途や、ツールが持つビジョンや思想の話です。
もう一つは、「デジタルノート」全般に関する話題。たとえば、そもそもデジタルでノートを取るとはどういうことかや、アナログとの違いは何なのかといった話。
二つを比べてみたとき、前者の方がキャッチーな(あるいはフックが多い)話題になることは間違いありません。やはり知っているツールの名前がタイトルに入っていると視線が留まります。それに具体的な話だけが持つ臨場感は独特の魅力を持っています。
一方で、私自身の興味はどちらかと言えば後者に置かれています。個々の具体的なツールの話を「越えて」言えることは何かないか。そういうことを探したい、論じたい気持ちがあるのです。
とは言え、抽象的なものをそのまま扱うことはできません。私たちはいつだって具体的なものを通して抽象的な思考に至ります。だから、個々のツールの話は大切なのです。でも、それはあくまでノードの一端でしかない。私の、ということは私が主催するこの(イマジナリーな)「デジタルノート研究会」においても、主眼は同じです。
「デジタルツール」という、20年前の私たちが持っていなかったテクノロジーについて考えること。それが大きな目標となります。
さまざまなツールで
そういう思いがありますから、私自身はCosenseやWorkFlowyをよく使っていますが、「そのツールでなければならない」という主張はしたくありません。そうした主張は、私が信じるデジタルツールが持つ可能性そのものを毀損してしまうからです。
別になんだっていい。どう使ったっていい。
それが個人が持つ「自由」ということでしょう。道具について考えることは、それが人間の可能性を開花させることを考えることであって、独裁的な制約の下に人を置くことではありません。
そうした前提を起きつつも、こういう機能はこういう風に役立つ、ということくらいは言えるかと思います。そこから新しい使い方が発明されることもあるかもしれません。
それぞれの人の情報環境に向けて
こうして書いてみたことで、なぜ私がデジタルツールについて考えたがっているのかがようやくわかってきました。
私は、それぞれの人が自分なりの情報環境を設計する手助けをしたいのです。
ここでいう情報環境とは、情報を保存し、配置し、参照し、思考し、発想し、展開していく行為の全体を支える体制を指しています。情報を使っていくためのシステム。
そうしたことが、人が生きていく上ですごく大切だという直感があります。別段たいそうな話ではありません。紙のノートを使って考え事をするとか、そうしたこともこの情報環境の一部です。
そのような情報環境が、硬直的なシステムから下賜されたものしかないのが堪え難いのです。つまり、ここには私なりの反抗心(ライフ-ハック)が宿っています。自分たちの道具=環境を、自分たちで作っていく。そういうマインドセットで、今後も”研究”を続けていこうと思います。