名詞を扱うことと、テーゼを扱うこと
形式を自分で決められるデジタルノートは、その自由度の高さが混乱を引き起こします。
どんな単位で情報を保存するのか、そこにどんなタイトルをつけるのか。決めるのは簡単ではありません。いや、決めること自体は簡単なのです(だって誰にも怒られないし)。効果的な決定を下すのが難しく、判断がつかないというのが正確でしょう。
たとえば、本を読んでいて以下の一文にぶつかりました。
思考プロセスというと、なんだか学術的だったりプロっぽかったりし難しそうに思えるかもしれない。しかし私が考えるに、日常的な物事を整理するためのカジュアルな思考プロセスこそが、現代に生きる人々にとって必要だと思う。
デビット・アレンによる『全面改訂版 はじめてのGTD ストレスフリーの整理術』の一文です。よいことが言われていると感じます。これをデジタルノートに書き留めておきたい。
さて、タイトルはどうしましょうか。
名詞的に行くなら、「カジュアルな思考プロセス」になるでしょうか。そこに、その定義や内実を書く。あるいは、『全面改訂版 はじめてのGTD ストレスフリーの整理術』という本のページをつくり、そこに書き込んでおくのも名詞的なアプローチです。
いわゆるカード法が述べるのはこれとは違ったアプローチになります。強いていえばテーゼ的。その場合、タイトルは「カジュアルな思考プロセスこそが、現代に生きる人々にとって必要である」となるでしょう。ある種の主張が書き込まれるわけです。
「カジュアルな思考プロセス」
「カジュアルな思考プロセスこそが、現代に生きる人々にとって必要である」
情報の単位が大きく違うことがわかるかと思います。このどちらの形でもノートが取れる。これが混乱を引き起こすわけです。
記事のさまざま
さて、私はブログを運営しています。その2025年の記事のリストをご覧ください。
名詞的なタイトルもありますが、全体としては文になっているものが多いです。
ここで確認しておくと、テーゼは真偽を判断できる文です。一方で名詞は単語です。名詞的なタイトルとテーゼ的なタイトルは、単語のタイトルと文のタイトルとして一般化できるでしょう。
では、同じくWeb空間に存在している(とてつもなく巨大な)Wikipediaを覗きましょう。
青字部分がページタイトルなわけですが、基本的には名詞です。一般名詞か固有名詞。もちろん「神は死んだ」のような文がタイトルになっているページもありますが、実際これは”神は死んだ”と表記するのが自然でしょう。ある種、名詞的に扱われているわけです。
私のブログもWikipediaも、それぞれのページは「記事」と呼ばれますが、その内示というか志向性はまったく異なります。ブログは読み物としての記事、Wikipediaは辞書・時点としての記事です。
もちろん、どちらが「記事として正しい在り方なのか」と問うことは無意味です。単に、やろうとしていることが違うだけです。
テーゼ的
では、いわゆるカード法ではどちらの型を採用するのがいいでしょうか。
ここでルーマンの実際のカードを覗いてみましょう。「ZK II Zettel 1/6」に位置するカードです。
「存在論的組織論への批判について」
組織論の存在論的前提を注意深く検討しようとすると、
その議論は非常に複雑なものにならざるをえない。
おそらくここでは、存在論的図式について簡潔に特徴づけるだけに留め、
しかもそれらは結局成功しなかった、という主張を添えるだけで十分だろう。
1-1 全体と部分
組織は「全体性」として理解され、
それは「部分」から成り立ち、さらにその部分間の特定の「関係」によって特徴づけられるものと考えられている。
たとえば、誤解を招く題名ではあるが、Feibleman / Friend がそうである。
そこでは、このような関係体系の論理的含意が、多かれ少なかれ厳密に展開されている。
基本文献:21/3d8d;21/3d9;532/4b6,10b;1
さらにこれらの概念使用例として:
Argyris 1960『Understanding』27頁以下
Eulenburg 1952、12頁、7/4d に引用
Barnard 1938『Functions』
(それほど明確ではないが、それでも79頁参照)Tannenbaum ほか 1961、254頁以下
(7/4c およびその後続箇所で引用)
明らかに名詞ではありませんね。文が掲げられています。他のカードも同様です。ルーマンのカードは名詞的タイトルではなかった。
この点でわかるのは、ルーマンはwikipediaを作ろうとしていたわけではない、ということです。社会学の用語をカード化し、それをリンクでつなげた「社会学wiki」を作ろうとしていたのではなかった。たまに、「Zettelkasten」という名前を使いながら、用語集を作っている例を見かけますが、それは別のアプローチだと考えればよいでしょう(少なくともルーマンのZettelkastenではない)。
では、テーゼなのかというと、そういうわけでもありません。「Auswertung Arbeitsteilung(分業の分析)」「Übersicht über einzelne Organisationstheorien(個々の組織理論の概要)」といったタイトルもあります。タイトルを見ただけで内容が把握できるほど詳細な記述にもなっていません。
この段階で、『How to Take Smart Notes』から連想される「カードのつくりかた」とかなり異なっている感触がしてきます。
実際、上のカードは単一の要素にまとまっているわけではありません。途中「1-1」とあって、この部分がすでに論文の導入のような記述になっています。だからといって、この続きのカードに「1-2」があるのかといえばそういうわけではありません。
「ZK II Zettel 1/6a」は「これらの記述には、2 つの基本的な概念が含まれています。すなわち、各ユニットまたはパーツには適切な または特別な任務を遂行すること、そして 単位または部分間の相互依存性または関係を含む 配置。(タネンバウム 1961、254頁以降)」とあり、タイトルがありません。そのうえ「これらの」と文脈不明の書き出しですが、当然意識されているのは「ZK II Zettel 1/6」なわけです。
「ZK II Zettel 1/6,1」は「分業の評価」がタイトルっぽく示されて、関連する他のカードの番号が記載されているだけです。「ZK II Zettel 1/6,2」は、その続きのイメージ。
じゃあ「ZK II Zettel 1/7」はどうなのかと言えば、「個別組織理論の概要」というタイトルで参照すべき文献がリストアップされているだけです。ちなみに、この1/7からは大量の分岐が生まれていて、個々の文献がそれぞれに検討されているのだと推測できます。
(探し回りましたが、1-2の記述は近場には見つけられませんでした)
なんにせよめちゃくちゃ自由です。ナンバリングという固定的な住所があるおかげで、カードにはタイトルを含む必要すらありません。内容も形式できっちり固めなくてもいいのです。必要と思った記述をどんどんしていけばいい。文献を読み、構想をまとめ、考えを記述していく。その連鎖を、ナンバリング式カードが支えています。wikipediaの印象などどこにもありません。情報を静的に分類していこう、なんて姿勢は皆無です(トピック一覧ですら、ナンバリングカードの上位ではなく、ナンバリングカードに含まれている点に注目しましょう)。
もっと言えば、しゃちほこ張った「形式」はどうでもいいのです。ルーマンは自分の思考の発展を支えるためにこのやり方を開発したのでした。お作法のようにこれを守っていれば、思考の発展が後から着いてくるだろう、という理解は早めに捨てたほうがよいでしょう。
用法を意識する
もちろん、「用語集」をつくることが無意味というわけではありません。ある種の知的営為においては有用であり、場合によっては必要でしょう。たとえばあなたがその分野の用語の研究をしたいならば、用語集はまっすぐ役に立つはずです。しかし、思索を展開して行く上では、「少し役に立つ」くらいかもしれません。wikipediaがあるだけで、思索が展開するわけではない、というのと同じです。
まずは思索をはじめることからです。自分の考えを書き留めるところからです。
だとしたら、最初に提示した二択はどちらを採用するのがよいでしょうか。
「カジュアルな思考プロセス」
「カジュアルな思考プロセスこそが、現代に生きる人々にとって必要である」
どちらでもない、というのが私の答えです。用語を集めても、他人のテーゼを集めても、それだけでは私の思索がはじまるわけではありません(ヒントにはなります)。
思考プロセスというと、なんだか学術的だったりプロっぽかったりし難しそうに思えるかもしれない。しかし私が考えるに、日常的な物事を整理するためのカジュアルな思考プロセスこそが、現代に生きる人々にとって必要だと思う。
これを読んで、私が何をどう考えるか。それがスタートです。
調理の仕方はいろいろありえます。とりあえずは、アレンがここで「カジュアルな思考プロセス」を強調するために、学術的・プロっぽい、と対比させている点は注目できそうです。つまり、アカデミックとカジュアルの対比。
一般的に知的生産の技術は、アカデミズムかジャーナリズムの人間が開示してきました。「飯の種」なのだから当然ではあるでしょう。しかし、現代では市井の人間が情報を発信できるようになっている。だとすれば、カジュアルな知的生産の技術の重要性が増しているのと言えるのではないか。それは、アレンが述べたようにタスク管理の思考が「現代に生きる人々にとって必要」と述べたのに呼応する……。
といった形で思考が駆動したら、それが起点です。
この「カード」を書き終えた段階で、派生の検討が生まれています。まず「アカデミズムかジャーナリズムの人間が提示してきた」には情報を添える必要があるでしょう。1970年代の知的生産の技術書の著者の背景をリストアップする必要があります。そうなると、2020年に至るまでその背景が転じてきたのかを論じることもできそうです。
「どんな技術が必要とされるか」や「なぜ必要なのか」の具体的な説明がおそらくこの次のカードになるでしょう。でもって、アレンの本の書誌情報も添えておく必要がありますね。
これらすべてがこのカードと「リンク」を結ぶわけです。
そういう形で記述すれば、思索はどんどん発展し、カード同士の関係が結ばれていきます。あえてリンクする、みたいなことは(この時点では)不要なのです。まずもって目の前にあるカードから発展して生まれるカードがあり、それがリンクで結ばれる。それがスタートです。
思考の動きが先にあること。
用語集をつくるという姿勢だと、これが見えなくなることがあります。それでは「知的生産」はあまり進まないでしょう。
もちろん、ある程度貯えた知識がなければ、そもそも何かしらの考えが起こることが少ないということはあり、まずは勉強の期間が必要かもしれません。そのときは、用語集のようなデジタルノートづくりが有効です。ある分野のマスターでも、別の分野に入るときは、まずはそうした勉強が必要でしょう。
だからこそ「用法」を意識することが大切です。誰かの提示した方法を至高のようにありがたがるのではなく、「今、自分に必要なのは何なのか」を実地的に(つまり思弁的にではなく)考えていくこと。
そういうノウハウとのつき合い方こそが、メタノウハウだと言えるでしょう。
自由度の高いデジタルノートこそ、そうしたメタノウハウが重要になってきます。







