利己的な生き方と悪
以下のツイートを拝見しました。
「自分の幸せのために利己的になることは、果たして悪なのか」、という問題についてちょっと考えてみましょう。
まず、利己的とは自分の利益を中心に考えて行動することですから、自分の幸せのために行動することはそのまま「利己的になる」と言えるでしょう。よって、上記の問題は「利己的になることは、悪なのか」と言い換えられます。
さて、利己的と聞いて思い出すのはリチャード・ドーキンスの『利己的な遺伝子』(『The Selfish Gene』)です。その中でドーキンスは進化論における「利己的遺伝子」という考え方を紹介したわけですが、その考えを上の問題に結びつければ、「遺伝子は、悪なのか」となるでしょう。
ここで背理法的なアプローチを取ります。遺伝子が悪なのかそうでなはないのかの真偽はいったん横に置いておいて、仮に「遺伝子は悪」だったとしましょう。すると、この世界に存在しているすべての生物が悪の上に成り立っていることになります。
そうなると、「悪」という観点の意味は消失してしまうでしょう。すべてが悪人なら「悪」という概念がなくなる、というのと同じことです。よって、「利己的になることは、悪なのか」が、仮にyesならその場合は「悪」の概念が意味を失い、Noならば少なくとも「悪」ではないとなります。
どっちのルートを取っても、「悪」という概念は棄却されるわけです。
■ ■ ■
いや、そうではないんだ、という意見もあるでしょう。先ほど問題を整理しましたが、整理せずに「自分の幸せのために利己的になること」そのものを俎上に上げることもできそうです。つまり、生物が生き残るために利己的になることは悪ではなくても、「幸せ」というものために利己的になることは悪ではないか、という視点がありえるわけです。
さて、これはどうアプローチしましょうか。
まず、「生き残ること」と「幸せになる」ことが明確に線引きできるのかが議題に上げられるでしょう。個人的にそれは難しいように思います。あと、ストレスが強いとその「生き残る」ことにも悪い影響が発生するわけで、両方が関係していると考えた方が現実的でしょう。
仮にそれが線引きできたとして、今自分が欲しているのはどちらかのかを自分で適切に判断できるのか、という問題があります。自分は幸せを欲しているつもりで、しかし体は生きることを欲していたのだ、というすれ違いが起きないとは言えません。
だとすれば、フェールセーフの考え方から言って、たとえ「幸せになるため」と当人が思っていたとしてもそれは悪ではないとしておく方が実際的な考え方になりそうです。
■ ■ ■
ぜんぜん別の話をして締めましょう。ある人がいて、その人が深い絶望と苦痛の日々を送っているときに、そこから開放されることは特別な利得を得ることとはまったく違っています。もしそれを「利己的」と言ってしまえば、世界中から救済が消え去ってしまうでしょう。
だからごく単純に救われる道を選ぶのがよいのだと思います。自分が自分を救うのです。頑張るのはその後からでもぜんぜん大丈夫でしょう。